猿の文吉!

最近、オイラブログに来た理由ともいえる検索ワードの1位が4ヶ月連続のものがあります。
今月にいたっては、2位と圧倒的大差をつけてです。

それがタイトル、「猿の文吉
ましらのぶんきち、と読みます。幕末期の方です。
やっぱウィキペディアに貢がないからなんでしょうか?

ちなみにオイラは以蔵さんの脚本書いた時にこの人が出てきました。
その頃調べてた記憶では心もとないので、黒鉄ヒロシの名著「幕末暗殺」と、関連項目をウィキペディアから拾いながら詳述していきます、できうる限り。



文吉は元は博打打ちと言われてます。賭博師ですね。

経緯は不明ですが、その後、目明かしとなります。目明かしとは岡っ引のことです。
岡っ引といえば連想するのはやっぱり銭形平次でしょう。ただ、この職業は幕府そして管轄する奉行所に所属する公職ではなく、現代風にといえば警察に協力する情報屋か探偵、またはアメリカでは認められているトレジャーハンターに近いです。ただし、奉行所からは一切給料が出ません。
俗に文吉を目明かし文吉と言いますが、イコール岡っ引文吉という意味です。

文吉には養女(本名不明)がいて、君香と名乗って祗園に出ていたのを九条関白家の島田左近正辰に妾として差し出したことから信を得て、彼が歴史に名を残すきっかけが生まれるわけです。

島田左近は、かの井伊直弼と蜜月だった人物で、安政の大獄では井伊の指示で、その政治に反対する尊皇攘夷派の志士や学者など活動家を次々と捕らえた人物です。ちなみに最期は勢力を盛り返さんとした尊皇攘夷派に命を狙われ、薩摩の田中新兵衛らに斬殺されます。

文吉はその島田左近の手先として陰に日向に動いていました。
というのは、島田は市中の高利貸し(消費者金融業、かな)もやっていたので、志士や活動家の検挙の一方、文吉に借金の取り立てもさせていたわけです。現代でも取り立てが厳しいといわれるそうですから、当時は世情不安が拍手をかけ、人権もより軽視の傾向と思われます。文吉の取り立ては苛烈を極めたとのこと。

文吉は手先(岡っ引も手先との異名があります)として島田のために活躍、当然島田は文吉が頼りになる、かわいく思うこと必然でしょう。当時、島田には賄賂で1万両(1両=約14万円と聞いたことがあるので、約14億!)が手元にあったと言われますから、文吉に出した報酬も尋常ではないはず。なにせ、後に文吉が晒された脇の捨札(罪状を書き記したもの)には「非分の賞金をむさぼり(分不相応な大金をぜいたくに使い)」とありますから。
事実、文吉はその金で京の二条新地に妓楼(風俗店が近いですかね)を建ててるわけで、なんぼ地代も建設費も安いかもしれん時代でも、これまた人知を越える異常さ、出世ぶり。

そんなわけですから、彼は島田左近と並んで、街の嫌われ者、となります。
「驕る平家は久しからず」の故事があるように、島田左近と文吉が急速につかんだ栄光には落日も速い、これは歴史の摂理なのかもしれません。
島田暗殺後、幅を更にきかせた尊皇攘夷派、当然、文吉をそのままにしません。京の民衆が恨んでいることも大いに後押ししたことだろうと思います。

1862年閏8月29日夜、土佐の岡田以蔵・清岡治之介・阿部多司馬の三人が、文吉を三条河原に連行し、「斬っては刀の穢れ」と、細引(細いロープ、説明少々難儀)で絞殺するに至ります。
その最期の姿、凄惨を極めます。死体は全裸にひんむかれ、杭に縛りつけた上で、長い竹の棒を肛門から突き刺して体内を貫通させて頭から先を出し、亀頭に釘打たれました。五寸釘であったとなんかで見ましたが、ちょいと出典を忘れました。

それでも人々はその姿に同情を寄せず、晒された死体には見物人が石を投げつけたと伝えられます。
恨み骨髄、今日残る天誅図は暗殺者の異常なまでの性質を伝えていますが、当時の人々にはそれが拍手喝采、正義の味方と映ったのかもしれません。

以上が記録にある猿の文吉、または目明かし文吉と呼ばれる彼の生涯です。推論が多く、また事実を大きくしてるかもですが、そこはご容赦を。

あと蛇足を二つ。
・前述の文吉遺体側の捨札には「いぬ」と記してあったそうです。
猿じゃなくて??
・大河ドラマ第6作「竜馬がゆく」ではあの裸の大将を演じていた芦屋雁之助が文吉を演じてました!それはそれでスゲー。

猿の文吉について知りたい方、お役に立てましたら幸いです。m(_ _)m
なんか特記事項が増えたらまた付け加えていきますので。
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by hossynoblog | 2010-01-28 23:26 | つれづれhossy


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