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日本史とその弟子

二番弟子(元三番弟子)がもうすぐ旅立ちます。そのお話をしようと思います。

だいぶやきもきしましたが、無事、受験戦争を突破し、次のステップに進んでいきます。

僕自身は日本史が好きで愛していても、その道には進まなかったので、スゴいと純粋に思います。

どんな成長を見せてくれていくのか、先が本当に楽しみです。


出会いから話を起こすと長くなるので、簡潔に。舞台演劇での関わりでは相当親しかったなあ、と思います。

僕の脚本で立ってくれたり、スタッフをしてくれたり(まさに苦闘を共に乗り越えました)、アシスタントをしてくれたり。

最後に立った舞台、その本番を観れなかったのは本当に残念だったけれど。

あと、その他で言えば、日本史ワークショップでは出席率が高かったですし。


手塩にかけた、というとおこがましいですが、伝えておきたいことはちゃんと伝えたと思っています。

歴史観を持つ必要性という最大の目的も伝えましたし。

日本史年表・地図と司馬史観の名言集たるものも渡しましたし。


しっかし、最初に「日本史ワークショップを受けてわかりました。日本史の道へ進みたい!」ということを言ってくれた時の僕の嬉しさと、同時に来る勝手な責任の痛感といったらありませんでした。

とりあえず舞い上がって舞台屋織田組のメンバーに報告したのを覚えています(笑)


「太宰、その最後の愛人」を、というより山崎富栄さんと太宰治(こっちは思うところありて呼び捨てw)とをこよなく愛してくれていたのも彼女でした。富栄さん研究は師弟のライフワークになりそうです。

そして、僕が常日頃から言っている「間違った評価をされている人物が再評価されていくようにしていかなきゃいけない」の最大の理解者でもあります。


そんな彼女は「古文書が読めるようになりたい」と言ってまして。

これ、僕にはできないことなので、これはいよいよ追い越されるフラグが立ったな、と今や戦々恐々です(笑)


僕が主催した日本史ワークショップは先日、最終回を迎え、一番弟子も遠方ながら駆けつけてくれて、あっという間の3時間で幕を下ろしました。

そうして帰る前に三番弟子(当時w)が「今日でお会いできるのは(新潟で)最後かもしれません」と言うので、その時に思いつく限りの会話をしました。そうして見送りました。


僕もそうして帰ったわけですが、自分も二ヶ月後、この地を去るので、なんだか寂しさが込み上げてきました。

そして思っていました。なにか足りてないんじゃないか、もっとかけるべき言葉があるんじゃないかと、ワークショップで疲労困憊ながら、帰りに考えてました。

本当に師匠として役割を果たし切ったのか、と。

ので、そこでまず「今後は二番弟子として接する」という、今思えばわけのわからんおっさんのたわごとを伝えた次第。我ながらそれがどうした、です(笑)


そうこうしていたら、その翌日、職場に来てくれました。僕はちゃんと「二番弟子だよ」と口頭で伝えました。

本当、おっさんなにしてんだよ、ですが。

そのまま帰途が一緒になり、僕らは降りる駅が同じなので、帰りの電車で師弟うちそろって日本史への熱い想いを語りました。

お互いの好きな人物のこと、山崎富栄さんのこと、これが正しいを断じてしまう必要はないかもしれないこと。

どれだけの想いを伝えたか。少なくとも、その前日よりずっとずっと伝えきった感覚がありました。

そしてどれだけの想いを聞いただろうか、と。でも、しっかり受け取ることができていました。


……この出会いが僕にとってどれだけの宝物か、想像しても想像しても果てがないぐらいの幸せです、心底。


大好きな小説「銀河英雄伝説」でシェーンコップがこんなことを言います。

「はたしてヤン・ウェンリーはユリアン・ミンツの師であったか。それともユリアン・ミンツはヤン・ウェンリーの弟子であったか」

これに置き換えて僕らはどちらとなるのでしょうか。


僕の望みは決まっています。

「僕は彼女の師であった」


ちなみにこの後にも渡す物があってまた会ってます。

そして師から弟子に「元気で行ってらっしゃい」を。


思うんですよね。

ここから先、彼女は日本史の道に進むため、旅立つのではなく、飛び立つ。

いやでもなくて、はばたく


だから負けてられませんね、道を示した師匠としては!


by hossynoblog | 2018-03-25 23:32 | 日本史 研究中


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